2008年 04月 16日
【石田三成の重臣・島左近、領国経営に深く関与…文書発見】 ★yomiuri-online記事~ 石田三成が島左近らに領地経営に当たらせるなどとした古文書 戦国武将の石田三成が、重臣・島左近らに年貢収納を任せるとの内容の文書が見つかり、滋賀県長浜市の長浜城歴史博物館が9日、発表した。 文書は縦14センチ、横44センチ。三成が佐和山城(同県彦根市)の城主だった16世紀末に書かれたらしく、県内に住む代官の子孫が所有していた。代官に対し、城を空けることの多い三成に代わって左近ら3人の指示に従うよう記し、花押と日付があった。 数々の武将に仕官し、勇猛で知略にたけた左近は、三成に高禄(こうろく)で迎えられ、「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と高く評された。 三成の文書で左近の名が出てきたのは初めてで、静岡大の小和田哲男教授(戦国史)は「左近の生涯は謎が多いが、領国経営に携わる姿が浮かび上がる。三成らの研究にとって画期的な発見」としている。 ◆長浜城歴史博物館(館長 中島誠一)からの公式リリース 嶋左近の名前が記された石田三成文書の発見と寄附について この度、石田三成がその家臣に宛てた古文書が、長浜城歴史博物館(館長 中島誠一)に寄贈されました。 この文書は、佐和山城(現在の彦根市佐和山町所在)の城主であった石田三成が出した数少ない文書の一つであり、これまでその存在が知られていなかった新発見の史料です。 また、三成の家臣である「嶋左近」の名前が、三成が出した文書で初めて確認された点で、貴重な発見とも言えるでしょう。 この文書により、謎に包まれた嶋左近の実像の一部が浮かび上がったと言えます。 記 1 寄付文書 石田三成判物(はんもつ) 今井清右衛門尉宛 1巻 縦14.2㎝×横43.7cm 2 寄付者名 今井 紘一(いまい こういち)氏(滋賀県守山市在住、68歳) 3 寄付趣旨 本書の宛名の今井清右衛門尉は寄附者の祖先で、この文書はその伊香郡高月町唐川にある自宅に伝来したもの。 家宝として秘蔵しているよりも、三成出生地がある長浜市の博物館で、展示・研究活動の史料として活用した方が、本書の有効利用になると判断されたことによる。 4 寄附文書の内容 佐和山城主であった石田三成が、年貢収納に当たっての年貢率(免相、めんあい)については、嶋左近・山田上野・四岡帯刀に命じたので、その指示に従って年貢収納を行うよう、伊香郡の三成領代官を行っていたと推定される今井清右衛門尉に伝えた文書。 三成家臣である嶋ら三人の家臣は、遠隔地にいる三成に代わって、佐和山城で三成の領国統治を代行していたと考えられる。 ここでは、彼ら重臣が誓詞まで提出して、不正がないことを三成に誓ったとある。 近年の研究によると、石田三成が佐和山城主となったのは、天正19年(1591)とされており、さらに北近江四郡(伊香・浅井・坂田・犬上)を所領としたのは、文禄4年(1595)7月以降と考えられている。 本書の日付は8月23日で年号はないが、以上の状況から文禄4年以降で、 三成が佐和山城に退去する慶長4年(1599)閏3月以前の文書と考えことが出来よう。 石田三成が、佐和山城主として出した文書は、著名な文禄5年(1596)の13ヶ条と9ヶ条の掟書や、慶長2年(1597)の麦掟を除き、現物が残るものは9通しか確認されていない。 いずれも領内の寺社や家臣に宛てた文書で、本書は10通目の文書となり、それ自体が貴重である。 また、「嶋左近」の名が見えることは、大いに注目すべきである。 「嶋左近」は「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と俗謡に歌われたように、三成の重臣として知られるが、その活躍を示す史料は少なく、実像は謎に包まれている。 嶋左近(1540~1600)について概略を示せば、名を「清興」と言い、もと大和国の戦国大名筒井順慶の家臣であった。 筒井順慶の没後、同家を去った後は蒲生氏郷にも仕えた模様だが、最終的に三成の家臣となるのは、天正19年前後と考えられている。 朝鮮出兵にも三成に従っており、関ヶ原合戦の前哨戦・杭瀬川の合戦では、徳川軍を大いに悩ませ中村一栄の家老・野一色頼馬を討ち取ったことで有名である。 関ヶ原合戦では奮戦かなわず、黒田長政隊からの鉄砲により被弾し、討ち死にしたと言われる。 その名は『多聞院日記』(奈良興福寺の僧・英俊の日記)など、出身地である大和国(現在の奈良県)の記録には登場し、寄進した燈籠(奈良市春日大社所在)や、奈良市川上町、それに京都市上京区の立本寺塔頭教法院に墓地が現存するが、石田三成家臣としての活躍は、後世に作られた逸話集・家譜、それに軍記物でしか確認できなかった。 本書はこれまでまったくその存在が知られていなかったものだが、三成自身の文書に「嶋左近」の名前が登場する唯一の史料が、新たに発見されたことなる。 左近が三成の重臣であったことを確認できる上で非常に重要である共に、石田三成研究の上でも貴重な発見と言えるであろう。 5 寄附文書の釈文 免相之弁ハ、嶋左近・」山田上野・四岡帯刀」両三人ニ申付候、右之三」人之儀勿論誓詞之」 上可為順路候間、任」其旨可相納候、三人」方へも右之趣申付候也、 八月廿三日 三成(花押) 今井清右衛門尉殿 6 小和田哲男氏(静岡大学教授、戦国時代史の第一人者) 石田三成が出した文書に、「嶋左近」の名が記されている文書が発見されたと聞いて、非常に驚いている。 嶋左近は『多聞院日記』など、確実な同時代の史料に登場するので、その実在は確認できていたが、この文書の発見で、石田三成の重臣としての姿が、改めて確認できた。 「嶋左近」の生涯については謎が多いだけに、三成研究にとっては画期的な発見と言えるだろう。 7 寄附文書の公開 来る5月23日(金)から、7月15日(火)まで開催される「長浜城歴史博物館 新収館蔵品展」(別途、広報を行います)で初公開する予定です。
by hikosako
| 2008-04-16 19:12
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「冶部少に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と謡われ、「日本第一の勇猛」「鬼神をも欺く」勇将とたたえられ当時4万石の身代であった三成が、その半分の二万石の高禄で招いた武将。 by hikosako カテゴリ
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