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彦根左近の会

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2007年 10月 23日

島津越え五僧峠~戦国の道


石田三成が布陣した笹尾山の馬防柵からスタート!
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関が原合戦場最激戦地「笹尾山」にて地元ボランティアガイドの名調子で当時を偲ぶ
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最大の難所、時山から五僧峠を抜け島津越えを果たした近江の国五僧の郷で集合写真
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秋晴れの美しい山なみと、歴史の通り道「島津の退き口戦国の道」の静寂
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保月では地元の皆さんがお寺の開放をしていただき、大量のみかんやお茶の接待をしてくださいました
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20歳から73歳までの熱心なファンが京阪神など県外からも大挙のご参加を頂きました
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島津隊の命の道先案内人高宮宿の「小林新六郎邸」前で地元佐和山研究会田附氏の解説
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# by hikosako | 2007-10-23 20:32 | 彦根城築城400年祭支援事業
2007年 03月 25日

国宝・彦根城築城400年祭協賛事業(支援事業)

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国宝・彦根城築城400年祭
戦国三部作 最終章

「戦国の道」語り部ツアー&山越えウォーク

1 事 業 名 「赤備え井伊隊追尾!島津(五僧)越えの道」
2 実施主体名 井伊直政率いる赤備え隊の猛追尾の足跡を辿る「関ヶ原戦跡踏破隊」
3 実施時期 平成19年10月21日 (旧暦 9月15日)
4 実施場所 彦根-関ヶ原-時山-五僧-保月-多賀-高宮-彦根



5 事業の目的  
彦根城築城400年祭を記念して「関ヶ原戦跡踏破隊」を広く募集し、初代彦根藩主「井伊直政公」の勇敢で凄まじい武功の遺徳を称え猛追尾の足跡を辿ります
6 事業概要
慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)日本史上最大の戦い!天下分け目の「関ヶ原の戦い」で、戦いに敗れ敗走する西軍の中で島津軍は数万の大軍の中を敵中突破するという離れ業を行い、「島津の退き口」として有名です。その手引きをしたのが近江犬上(現:彦根高宮)出身の小林新六郎と甲賀衆とされています。またその島津隊を最後まで猛追尾したのが、後の彦根藩主となる井伊直政公率いる井伊の赤備え隊だったのも少なからず因縁を感じさせます。直政は率先して隊を率い、まさに勇敢で凄まじい猛追尾だったといわれています。しかし残念ながら直政は島津隊によりこの時受けた鉄砲の鉛毒により1年5ヶ月後の慶長7(1602)年2月1日に42歳の若さでこの世を去ります。今回その勇敢で凄まじい武功の遺徳を称え猛追尾の足跡を辿ります。

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7事業実施方法
(1) 事業の具体的内容
①国宝・彦根城築城400年祭を記念して、彦根にゆかりのある戦国武将が一同に登場する全国的に人気の高い歴史的事象に注目し、その遺徳を辿る「関ヶ原戦跡踏破隊」を全国から広く募集する。
②JR南彦根西口7:30-彦根文化プラザ7:45-彦根商工会議所8:00(バス)-JR彦根駅東口8:15(バス)-関ヶ原・激戦地後-(バス)-時山-(跡踏)-五僧-(跡踏)-保月-(跡踏)-多賀・八重練-(バス)-高宮・旧小林家-(バス)-彦根
※バスは貸切小型3台を予定





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③現在も鹿児島(薩摩)伊集院町の小学生が島津越えの威徳をたたえようと、昭和35年からこの退路をたどり、関ケ原から大阪までの120㎞を5日間で踏破する「関ケ原戦跡踏破隊」を組織して、毎年夏休みにこの道筋を辿っています。400年の時を越えた今の世にも引き継がれ称えられている島津越え(五僧越え)ですが、その島津隊を追尾した井伊隊の彦根として彦根城築城400年祭を親善民間交流の始まりとして、積極的に働きかける。

④語り部ウォーク&ツアー」として、歴史的地域文化の復興、創造にむけて歴史を尊び先人の偉業に学ぶことを基本に置き、歴史的付加価値のある資源化をめざす



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⑤申し込み先着100名定員、参加申し込み料はお一人千円(10歳以上に限る)
※注1.一部山歩き(標高700m.山越え)ルートを含む為、小学生低学年以下は参加できません
※注2.参加費にバス代、傷害保険以外の集合場所までの交通費、飲食費、入場料等は含みません。
※注3.天候等によりスケジュール等の変更がある場合があります。

※注4.大変申し訳ありませんが、当日の混乱、虚偽(いたずら等)の申し込みを等防ぐため、事前に ひこね「街の駅」寺子屋力石もしくは指定の口座に参加費を入金していただき、正式参加登録とさせていただきます。



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【申し込み及びお問合せ先】
e-mail: irodorina@packet.ne.jp
TEL: 0749-27-2810 ひこね「街の駅」寺子屋力石 11:00~16:30(月曜休館)    
携帯: 090-8237-0656 担当小杉
     





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全国手作り甲冑サミット、佐和山一夜城プロジェクトと続いた国宝・彦根城築城
400年祭戦国三部作は、いよいよ最終章「赤備え井伊隊追尾!島津(五僧)越えの道」
でフィナーレを向かえます。
最終章は戦国ファンならずとも有名な「島津の退き口」を407年前と全く同日で体感!
あわせて「井伊直政率いる赤備え井伊隊」の勇敢で凄まじい猛追尾の足跡を辿ります!

これこそまさに体験型の「戦国の道」ウォークです。 
たぶん二度と体験できない貴重な山越えウォークだと思います。
是非おひとりでも興味のある方はご参加ください。




ご質問と答え

> (1)同イベントの行程にはバスが含まれていますが、実際に歩く距離はどのく
> らいで、どのくらい時間がかかる見込みでしょうか。また、山歩きの道は(HP
> の写真を拝見していますが)、初心者向け、中級者向け、上級者向け、どの程度
> のレベルでしょうか。きつい勾配などがあるのでしょうか。靴はハイキング
> シューズ程度で大丈夫でしょうか。


踏破全延長15キロぐらいの行程になります。

最初の時山から五僧まで約2キロが最もハードですが、あとは自動車
が通れるような山道です。
街歩きとは違い一部山越えをしますので、長靴かしっかりとした靴、
及び服装でお願いします。


> (2)バス代はおいくらですか?お昼は休憩所などで取るのでしょうか、それと
> も、各自でお弁当持参でしょうか。

バス代と保険代は千円の申し込み代金に含まれます、他は一切いりません。

残念ながら山の中では電話は圏外ですし、トイレや休憩所もありません。
御昼は各自コンビになどでおにぎりや弁当を購入してください



> (3)山歩きには、どなたかガイドがつきますか。

各ポイントで地元の方のお話を聞きます。
サポートスタッフは約15人です。
途中脱落者の為に車も用意していますので安心してご参加ください。


> (4)雨天でスケジュールに変更がある場合、どのような連絡があるのでしょうか。

当日の天候等によるスケジュール変更はこちらから連絡させていただきます。
雨の場合は希望者のみ、関が原歴史民族資料館などに行く予定です。



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# by hikosako | 2007-03-25 13:31 | 彦根城築城400年祭支援事業
2007年 03月 25日

井伊隊追尾!五僧峠(島津越え)の道。

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 「島津の退き口」五僧峠(島津越え)戦国の道

慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)日本史上最大の戦い!天下分け目の「関ヶ原の戦い」で、東西18万が対峙する中、絶好の位置に布陣し大群を率いた西軍の主力部隊の毛利、小早川隊らが日和見し傍観するなか、石田、宇喜田、小西、大谷各隊は、それでも奮戦し互角以上の戦いが続いた正午すぎ、小早川秀秋らが東軍に内応し(寝返り)攻撃を始めた為、ついに西軍は総崩れになり、敗走を始めた。戦いの勝敗がほぼ東軍の勝利に決する時、戦わず留まった島津隊は戦場に孤立した。1598年の朝鮮の役(泗川の戦い)では明軍4万の大軍を5千の兵で打ち破り、義弘率いる島津軍は「鬼石曼子(おにしまづ)」と呼ばれて恐れられた。そして僅か2年後のこの「関ヶ原の戦い」において又しても数万の大軍の中を敵中突破するという離れ業をすることになる。島津の退き口としてあまりにも有名です。井伊隊追尾!五僧峠(島津越え)の道。_f0017409_18453511.jpg
残念ながら今となっては想像するしかありませんが、この道筋を辿る時欠かせないのが近江犬上(現:彦根高宮)出身の小林新六郎と近江水口城主 長束正家に仕える甲賀衆の手引きに対する島津義弘から渡された「軍忠状」という感状です。
またその島津隊を最後まで猛追尾したのが、後の彦根藩主となる井伊直政率いる井伊の赤備え隊だったのも少なからず因縁を感じさせます。
直政は島津隊によりこの時受けた鉄砲の鉛毒により1年5ヶ月後の慶長7(1602)年2月1日に42歳の若さでこの世を去ります。

さて、無事薩摩に帰還したのち戦後処理で島津家は唯一敵方で所領安堵となります。その後徳川幕府となりましたが、島津家は代々参勤交代の道中には必ず道筋として中仙道を使い高宮の本陣に宿泊し、欠かさず小林家に謝辞に訪れるようになったと伝わっています。


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現代も鹿児島(薩摩)の伊集院町と多賀町との姉妹都市提携をはじめとして、島津越えの威徳をたたえようと伊集院町の小学生が昭和35年からこの退路をたどり、関ケ原から大阪までの120㎞を5日間で踏破する「関ケ原戦跡踏破隊」を組織して、毎年夏休みにこの道筋を辿っています。
400年の時を越えた今の世にも引き継がれ称えられている島津越え(五僧越え)です。


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時山(岐阜)側から五僧(近江)を望む・・・僅かに減った島津隊の希望と安堵の命の峠です。


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島津越え(五僧峠)は岐阜県上石津町時(地名)から滋賀県多賀町へ6里(24Km)、鈴鹿山脈の北部を越える旧街道です。中山道の南に平行するので、江戸時代には脇街道として、伊勢、美濃と近江の随一の近道として近江商人や炭焼き商人そして多賀、伊勢詣の人々で結構往来は多かった街道ですが、今は途中の山間の集落はほぼ廃村になってます。



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今は誰も住まなく廃村(昭和51年)になった保月(ほおづき)ですが、享保年間には91軒あり、その後も小・中学校、郵便局、派出所、神社、寺 等もあり周辺の集落から人が集まった。島津隊はここで暫く休息したと伝わっています。



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保月から杉坂(峠)そして八重練(多賀)に向かう晩秋の道・・・疲れきった島津の軍勢に小林新六郎はこの道で力強く励ましながら言った筈です・・「豊久様!多賀宮は、そして高宮はこの道のすぐ麓でございます」。 このあたりは冬場この先に3mの雪が積もっても、殆ど雪が積もらない不思議な坂といわれ「寒坂」と呼ばれていました。おそらく吹き抜けの風雪が相当強い所なのでしょう。

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切通しの峠のすぐ先に多賀大社の神木といわれる杉の大木4本、樹齢400年とある。この神木は彦根市内からも鍋尻山と高室山の2本の鉄塔の間に見ることが出来ます。ここから望む景色は絶景で遠く比良の山々や琵琶湖そして彦根市内が一望できます。

# by hikosako | 2007-03-25 09:45 | 彦根城築城400年祭支援事業
2007年 03月 25日

「日本第一の勇猛」「鬼神をも欺く」勇将とたたえられた左近


「鬼左近」とも称され

「日本第一の勇猛」「鬼神をも欺く」勇将とたたえられた左近、

その風貌を伝える肖像などもまったく残されていませんし、

必ずしも正確に伝えられていません。


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名字
  ●「島」:現代の表記  
  ●「嶋」:古い史料類
通称
  ●「左近」:諸史料
  ●「左近 允(さこんのじょう)」:
        『古今武家盛衰記』
実名
  ●「勝猛(かつたけ)」:圧倒的で、現代の史書もこれを採用
  ●「友之(ともゆき)」:『和州十五群衆徒郷士記』など多数
  ●「昌仲(まさなか)」:『常山紀談(じょうざんきだん)』
  ●「清興(きよおき)」:根拠が多い『多聞院(たもんいん)日記』など
当会は「島 左近 清興」を採用し以後「左近」と表記します。

■生国は?

  ●大和(奈良県)説 一般論

 左近が大和の筒井氏に仕えていたことはたしかな事実で、同国平群(へぐり)郡には嶋氏という国人(こくじん)がいて、早くから筒井氏と行動をともにしていたことも明らかです。それらを結びつけて考え、左近を大和の出身とするのが、自然な発想の一般論です。
嶋氏:
 春日神社の神人(じんにん)であり、興福寺一乗院の坊人でもあったという(朝倉弘・『奈良県史』所収「大和武士」)。
 応仁の乱には、筒井党として東軍の畠山政長の側に立ち、いったんは没落の憂き目をみたが、筒井氏の復活とともに息を吹きかえしたらしい。

 嶋一族は筒井氏麾下にあって平群谷(へぐりだに)を押さえ、椿井城(つばいじょう)〔生駒郡平群町〕、西宮城〔同町〕に拠っていたとみられている。
 左近その人の家の系譜は明らかでないが、父を豊前守といい、興福寺寺宝院を建立したという伝えがあったという〈『諸系図纂』)。左近軍旗/①裾黒斜め分けに神号と柏紋、二引『関ケ原合
     戦図屏風・井伊家本&木俣家本』

  ●近江(滋賀県)説 『坂田郡志』

 近江の箕浦荘(坂田郡近江町)の領主に嶋氏があり、本氏を藤原と称し、京極家の傘下に入っており、この家の嶋若狭守の子が左近であると記したものですが、当の嶋氏そのものの記録(『嶋記録』、『嶋系図』)には左近の名は見えません。
 しかし、左近の名は徳川家をはばかって消されたものであるとし、後に左近が石田三成と肝胆相照らすことになったのも、同郷人であり、ともに京極傘下にあったからだとしています。
  ●尾張(愛知県)説 『寛政重修諸家譜』

 織田一族の信正の五男某が通称を左近といい、石田三成に属して関ケ原の戦いに討ち死にした、とあります。しかし、それ以外には傍証もないし、この織田氏が嶋氏と改めたのは、信正の三男一正が美濃(岐阜県)の嶋村に移住した以降のことだというから、ややつじつまが合っていません。
  ●対馬(長崎県)説 『古今武家盛衰記』など

 史料もいくつかあるりますが、根拠は明らかではありません。


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裾黒斜め分けに神号と
柏紋、二引
『関ケ原合戦図屏風・
井伊家本&木俣家本』









■三成への出仕とその関係
  ●城より得がたいもの


 『三成は、賤ヶ岳の戦い(天正十一年)では七本槍に次ぐ武名を馳せた。時に三成、二十四歳。
 才知のみ語られがちな三成であるが、この賤ヶ岳の戦いでは、秀吉の為に思う存分槍をふるい武功を賞された。その時の勲功により水口4万石の領主となった三成は、野洲川を外堀とし、古城・近江岡山に入ったが、本格的な築城はなかったようである。 が、この地で三成は
城より得がたいものを得た
       ---不出世の将器「島左近」その人である。---
 近江水口で四万石の領主となった三成が、その半分の二万石をさいて、これを獲得したというのである。これを聞いた秀吉が君臣の禄が同じだということは昔からためしがない、左近もその志に感じて三成に仕えたのだろうと感嘆し、左近をよんで三成によく仕えるようにといったという。』

 という話があります。左近は高名の士であったから、高禄で招こうとした諸侯も多く左近がいかに大物であったかを示す逸話であるが、残念ながらこの話には確たる根拠があるわけではないし、左近が三成に仕えるのは後のことになるがこのころ出会ったの事実であろう。。

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# by hikosako | 2007-03-25 09:31