彦根左近の会

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2007年 03月 25日

井伊隊追尾!五僧峠(島津越え)の道。

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 「島津の退き口」五僧峠(島津越え)戦国の道

慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)日本史上最大の戦い!天下分け目の「関ヶ原の戦い」で、東西18万が対峙する中、絶好の位置に布陣し大群を率いた西軍の主力部隊の毛利、小早川隊らが日和見し傍観するなか、石田、宇喜田、小西、大谷各隊は、それでも奮戦し互角以上の戦いが続いた正午すぎ、小早川秀秋らが東軍に内応し(寝返り)攻撃を始めた為、ついに西軍は総崩れになり、敗走を始めた。戦いの勝敗がほぼ東軍の勝利に決する時、戦わず留まった島津隊は戦場に孤立した。1598年の朝鮮の役(泗川の戦い)では明軍4万の大軍を5千の兵で打ち破り、義弘率いる島津軍は「鬼石曼子(おにしまづ)」と呼ばれて恐れられた。そして僅か2年後のこの「関ヶ原の戦い」において又しても数万の大軍の中を敵中突破するという離れ業をすることになる。島津の退き口としてあまりにも有名です。f0017409_18453511.jpg
残念ながら今となっては想像するしかありませんが、この道筋を辿る時欠かせないのが近江犬上(現:彦根高宮)出身の小林新六郎と近江水口城主 長束正家に仕える甲賀衆の手引きに対する島津義弘から渡された「軍忠状」という感状です。
またその島津隊を最後まで猛追尾したのが、後の彦根藩主となる井伊直政率いる井伊の赤備え隊だったのも少なからず因縁を感じさせます。
直政は島津隊によりこの時受けた鉄砲の鉛毒により1年5ヶ月後の慶長7(1602)年2月1日に42歳の若さでこの世を去ります。

さて、無事薩摩に帰還したのち戦後処理で島津家は唯一敵方で所領安堵となります。その後徳川幕府となりましたが、島津家は代々参勤交代の道中には必ず道筋として中仙道を使い高宮の本陣に宿泊し、欠かさず小林家に謝辞に訪れるようになったと伝わっています。


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現代も鹿児島(薩摩)の伊集院町と多賀町との姉妹都市提携をはじめとして、島津越えの威徳をたたえようと伊集院町の小学生が昭和35年からこの退路をたどり、関ケ原から大阪までの120㎞を5日間で踏破する「関ケ原戦跡踏破隊」を組織して、毎年夏休みにこの道筋を辿っています。
400年の時を越えた今の世にも引き継がれ称えられている島津越え(五僧越え)です。


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時山(岐阜)側から五僧(近江)を望む・・・僅かに減った島津隊の希望と安堵の命の峠です。


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島津越え(五僧峠)は岐阜県上石津町時(地名)から滋賀県多賀町へ6里(24Km)、鈴鹿山脈の北部を越える旧街道です。中山道の南に平行するので、江戸時代には脇街道として、伊勢、美濃と近江の随一の近道として近江商人や炭焼き商人そして多賀、伊勢詣の人々で結構往来は多かった街道ですが、今は途中の山間の集落はほぼ廃村になってます。



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今は誰も住まなく廃村(昭和51年)になった保月(ほおづき)ですが、享保年間には91軒あり、その後も小・中学校、郵便局、派出所、神社、寺 等もあり周辺の集落から人が集まった。島津隊はここで暫く休息したと伝わっています。



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保月から杉坂(峠)そして八重練(多賀)に向かう晩秋の道・・・疲れきった島津の軍勢に小林新六郎はこの道で力強く励ましながら言った筈です・・「豊久様!多賀宮は、そして高宮はこの道のすぐ麓でございます」。 このあたりは冬場この先に3mの雪が積もっても、殆ど雪が積もらない不思議な坂といわれ「寒坂」と呼ばれていました。おそらく吹き抜けの風雪が相当強い所なのでしょう。

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切通しの峠のすぐ先に多賀大社の神木といわれる杉の大木4本、樹齢400年とある。この神木は彦根市内からも鍋尻山と高室山の2本の鉄塔の間に見ることが出来ます。ここから望む景色は絶景で遠く比良の山々や琵琶湖そして彦根市内が一望できます。
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by hikosako | 2007-03-25 09:45 | 彦根城築城400年祭支援事業


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